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4月 本物であるか否か、「私たちの推薦状はあなたがた自身です」

「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」

(Ⅱコリントの信徒への手紙 3:2、3)

 札幌キリスト召団員一人ひとりが、「私は、キリストが水谷先生を用いてお書きになった手紙です」と胸を張って言えるだろうか。一人ひとりの人生がキリストの愛の表現体になっているだろうか。「神の言葉」になっているだろうか。

余市惠泉塾はまどろんでいる、愛し合っていない、安定志向の人々が濃厚な愛の空気を薄めている、と水谷幹夫先生から厳しいご指摘の言葉があった。

私たちが互いに愛し合っていること、それが唯一の、この共同体が本物であることの推薦状であるという。だとすると余市惠泉塾はまだ本物ではないということである。しかし、この共同体が聖霊の炎で燃やされていなければ、愛し合うことはできない。そして、愛する者となるのも、愛し合う共同体となるのも、神がしてくださることである。本物になるためには神の憐れみを受けるしかない。

パウロ同様、水谷先生にも確かに神が「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格」を与えてくださっていると分かる。なぜなら、神から直接「人生の学び舎をつくれ」と声をかけられて始まった惠泉塾は、命の泉の水を湛え続けて24年、涸れることなく保たれているからだ。

モーセが率いた40年の荒れ野生活の中に、神はイスラエルの歴史上最も濃厚に顕れた。一方、惠泉塾という荒れ野生活にも、神はいつも共におられて必要のすべてを満たし続けてくださっている。そして、神はしるしと不思議と奇跡を驚くほどたくさん見せてくださった。しかし、モーセや水谷先生を通して語られる神の言葉は、信じて、霊によって心に書きつけられなければ本当の効力を発揮しない。本物にならない。モーセに率いられた60万の民は彼の言葉に聞き従えず、とうとう荒れ野で滅びてしまった。

新約の時代、罪の贖い主として世に遣わされ、十字架にかかって召天されたイエス様は聖霊として戻って来られた。そして、真理の霊、弁護者、まことの助け主となって心に臨んでくださり、愛する力となってくださるという約束が与えられた。私たちは神の霊を受けることによって新しく生まれ変わる。そのとき、私たちの内にイエスの命が充満して愛する者へと変質する。偉大な神の力に覆われ、偉大な神の御事業に就かせていただける。

4月14日、余市教会でイースター記念礼拝が行われる。イースターエッグを思い浮かべてほしい。生まれながらの私はあの卵の殻の中にいる。そして、本物の世界は殻の外にある。殻の中で生きるのは何とも息苦しいが、出たことがないのでこれが世界だと思っている。しかし、私たちは殻の外へ出たとき、初めて本当の姿を取り戻せるのだ。

あるとき、私はこの約束を信じてみようと思った。聞いた福音を信じて人生を賭けてみようと思った。本物の人生は大きな失敗、行き詰まりから始まったのである。卵の殻を破って外の世界に躍り出ようとした。すると目が開けて、神の創造された愛し合う世界を実感することができた。人は変わるという確信が生まれた。なぜなら、確かに神様は共にいてくださり、この愚か者をつくり変えてくださっているではないか。だから私には、人は神によって生まれ変わることができるという確信がある。

殻の中にいると本当には見えず、聞こえないので、裸眼で隣人と向き合うこともできない。覆いがかかっているので、先入観でしか隣人と向き合うことができないのである。

しかし、殻の中でも声は聞こえる。「殻を破ってごらん」と呼びかける声が聞こえる。神の言葉を聞いて殻を破るのは私たちの仕事である。生みの苦しみをしても、突破せよ。裸眼で神の世界を見せてくれる聖霊を求めよ。霊によって心に言葉が刻まれるとき、内側から変えられて、私たちは「本物の神の僕」、「キリストの手紙」、「愛の共同体の推薦状」になれるのだから。

(木下 肇/2019.3.24 余市教会 主日礼拝メッセージより)