日本キリスト召団について

沿革

1962年に日本キリスト召団を結成した小池辰雄先生は1982年6月26日、全国で12番目の群れとして札幌キリスト召団の設立を宣言しました。その責任者に指名された水谷幹夫先生は1968年10月30日に主の御声を聞き、聖霊体験をして以来、小池先生の群れ、日本キリスト召団に所属することになりました。
その後、水谷幹夫先生は啓示により、無教会のあり方を離れて教会化を推し進める一方、家庭集会、惠泉塾、小池辰雄記念図書室、聖書セミナー、伝道集会、教育講演会、スカイプによる200人規模の朝の聖書の学びなど、他には類を見ない多彩な伝道活動を展開してきました。また、㈱ヴィタポートを設立して地域社会貢献への道を模索しています。
これはひとえに、水谷先生にのみ啓示された「神の秘められた計画」に基づくものであり、これを信仰の柱に据えることにこの群れの特質があります。この「神の秘められた計画」の担い手になることこそ、人間に対する神の創造目的であり、キリストを生きる道なのですが、ルターもカルヴァンもこのことには注目しませんでした。

小池辰雄先生の結成した日本キリスト召団は、1997年2月7日に突然解散し、歴史からその名を消します。それ以来、札幌キリスト召団は全国の召団との絆がなくなり、単立の群れになります。これは召団を興された小池先生の判断によるものでしたが、水谷先生はそのとき、全国の召団が今まで以上に影響しあい、切磋琢磨すべきだとお考えだったので遺憾に思われたそうです。

当時、小池先生の「無の神学」はキリスト教界において無視されましたが、そのスピリットは12番目に設立された札幌キリスト召団に受け継がれ、今日大輪の花を咲かせています。

2013年に開催された「水谷惠信引退記念式」のプログラムに、先生による次の文章があります。

「私は小池辰雄先生に頂いた20歳の第二信で既に後継者に指名されていた。それが今、誰認めるでもなく、現実に成っていると思う。都賀の小池辰雄記念図書室と『無者キリスト』の読書会の盛況ぶりを見ても、世界に広がる300人の群れの諸活動を見ても、余市で営まれている70人の聖なる共同生活を見ても、それが分かる。先生の『無の精神』は受け継がれ、確かに大輪の花を咲かせている。湧き出た生命の水は川となって、実際に多くの渇いた喉を潤している。何というありがたいことだろう。」

2018年のある朝、水谷先生は祈りの中で、この群れは「札幌キリスト召団」ではなく「日本キリスト召団」と名乗るべきだという思いを与えられました。この群れにはリアリティがあり、実質があり、世界的な広がりがあります。水谷先生は「日本キリスト召団」を立ち上げた小池先生の思いを復活させたいと思われました。何よりも神がそれをお喜びになると確信されたからです。

1985年発行の「エン・クリスト」24号に「日本キリスト召団の歴史的使命」という小池先生の文章があります。創設者の思いを汲み取ることができる箇所を抜粋します。

「とにかく、大勢の兄弟姉妹は私を通して聖霊のバプテスマにあずかった。神キリストはこの破れ器を用い給う。ただひれ伏すのみ。かくて今は、南は鹿児島から北は北海道まで全国に召団が散在することになった。兄弟姉妹よ、各召団はそれぞれの特質特色をもって主の栄光を現す身証体であっていただきたい。決して全体主義ではない。誰でも天下一品の個でありながら、キリストの無者であり、使命を持った実存であり、信即行の使徒的実存である。各召団はキリストという指揮者によって天的な交響曲を奏でる。曙の星のような小さな日本キリスト召団ではあるが、現代キリスト教界の霊的水準から言えば、上部の一端を承っており、キリスト教史における歴史的使命が秘められている。この福音を身証すべし。垣根のないこの幕屋召団の展開をただ聖名のゆえに祈ってやまない。」

2019年4月11日、札幌キリスト召団は「日本キリスト召団」と改称することが文化庁により正式に認証されました。この群れの使命はますます鮮明になってきています。

私たちは、日本に、世界に「異なるものが互いに愛し合って一つとなる世界づくり」という「神の秘められた計画」の実現成就のために献身しなければなりません。神はその目的で、「日本キリスト召団」を復活させられたのです。そして、召団員一人ひとりを終末の世から選び出されたのです。(文責 長野初美)

教義

私たちは、聖書の教えをこのように理解し、生活実践し、神の豊かな恵みにあずかっています。

(1)全宇宙の有形無形のあらゆる存在は、聖書が伝える「主なる神」によって「創造」された、ということが私たちの発想の原点です。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(2)「主なる神」の天地創造の目的は、異なるものが互いに愛し合って一つとなる世界づくりであることを啓示されたパウロは、それを「パウロの福音」と呼んで世に広めました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(3)「主なる神」は千差万別の被造物を創造し、それらに一つも無駄がなく、互いに相手の不足を補い合って一つの「調和世界を創り出す」ように、と企図されました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(4)天地創造の前の計画では、唯一「神に似せて」造られた土の器である人間が神の子に育って、愛し合う世界づくりの担い手として働き、新天新地で神と共にその完成を祝うはずでした。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(5)しかし、人類の歴史の初めに、神に敵する悪魔が始祖アダムの助け手エバを唆して罪を犯させました。二人は、食べるなと命じられていた知恵の木の実を食べたので、神との信頼関係が壊れて、神に処罰され、神の愛に満ちたエデンの園から二人とも追放されました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(6)神の楽園の外に出て、命の源なる神から離れた生活を始めて、人間は産みの苦しみや労働の苦しみ、愛し合えない夫婦や兄弟の苦しみを知りました。妬みや憎しみが殺人にまで発展することも知りました。神なき邪悪な世の生活は誰にとっても悩みの尽きないものとなりました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(7)「主なる神」は悪魔の手から人間を奪い返して、初めの計画通り人間を神の子にし、彼らを使って愛し合う世界を完成させたいとお考えになりました。そして、そのための救いの道を用意なさいました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(8)ノアの時代、「主なる神」は邪悪な世を大洪水で滅ぼして、方舟に逃れたノア一族だけで人類の仕切り直しをしようと図られました。しかし、神に従う無垢な魂はノアだけで子どもたちには受け継がれず、失敗に終わりました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(9)次に、アブラハムが「主なる神」に選ばれ、神を信じて生きる方法を教えられ、子孫に伝えました。しかし、どんなに預言者たちを通して「主なる神」に立ち帰ることを促されても、アブラハムの子孫、選民イスラエルは自力に頼る生き方を捨てられず、長い歴史の結果、これも失敗に終わりました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(10)終末の世になって、神の子イエス・キリストが父なる神に命じられ、人類の救済のために地上にお降りになりました。そして、人としてお暮らしになり、神の前に生きる人の模範を見せてくださいました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(11)イエス・キリストは宗教家たちの嫉妬を買って十字架で処刑されました。罪無きイエスの死は神の計画に基づく贖罪の死でした。イエス・キリストは陰府に降ってそこに全人類の罪を捨て去りました。そのイエスを神が復活させなさいました。その死と復活を信じることによって、人類は神の前に罪を赦され、神と和解させていただき、神との正しい関係に入れていただいて全く新しくされました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(12)イエス・キリストの贖罪の死は同時に、悪魔の支配から人類を解放するために、御自分の血で罪の主人、悪魔に代価を支払って、人類を罪の奴隷市場から買い戻したことをも意味します。それによって、私たちは罪から完全に解放され、聖霊の内住によって自由にされました。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(13)自由になった人間は、神からの愛を受け取ることにより、神を愛し、隣人を愛する者、神の子になります。ここに神が私たち人間を救う目的があります。神の子は互いに魅き寄せられ合って、自ずから愛し合う、主を頭に迎えた共同体を形成します。それが教会です。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(14)私たちは神の一方的な憐れみによって神の子にしていただき、私たちの自発的決断によってキリストの僕となり、キリストの模範に倣って十字架を担い、神の秘められた計画に基づいて、愛し合う世界づくりのために喜んで自分を犠牲に供する生き方を始めます。それは、イエス・キリストが再び来られて世を裁く日まで続けられます。→講話動画(Youtubeへのリンク)

(15)人類の歴史の最後に神の敵、悪魔は、獣や偽預言者と共に滅ぼされ、神の子は永遠の命に生かされて神の国で王座に着き、神と共に愛し合う世界の完成を祝います。→講話動画(Youtubeへのリンク)

 

教会の特徴

さらに日本キリスト召団をよりよく理解していただくために以下に特徴を6つにまとめてみました。

1 聖書の身読「神の側から読む」

「聖書を身体で読む」ということが、この教会の第一の特徴です。目で読むのではない、頭で読むのではない、身体で読むということです。それは生活体験的に読むということです。学者のように研究するのではありません。自分の生活に即して読んで、生きている、ということです。ほかの教会の信徒さんが私たちの集いに来られて一番感じられるのは、「この集いの聖書の読み方は非常に生活実践的だ。」という感動です。私たちは頭の先で読みません。理屈で読みません。生活の裏づけのある読み方をします。それが身読です。

私たちの身読の特徴は、「神の側から読む」ということです。多くの人は聖書を自分の側から読みます。救われる側、恵みを受ける側から読みます。すると、非常に手前勝手な読み方になります。自分にとっては「こうあってほしい」という読み方です。それで不都合なところは無意識的に読み飛ばすことになります。そういう読み方は正しくありません。神の作品に向かう大切な心得は筆者の側から読むということです。筆者が何を訴えたいと思って書いたか、その筆者の立場に立って読むこと、これが神の側から読むということです。

その読み方をすると神の心が伝わってきます。書き手の側の思いがひたひたと伝わってきます。すると、それは私たちの魂を揺さぶらないではいません。神様の愛ということがわかってくるからです。この天地万物の造り主がどんな思いで私たちを見つめておられるか、期待しておられるか、招いておられるか、それがわかってくるのです。それで、それに応えたいという思いが湧いてきます。それは、自然の発露として、祈りに変わっていきます。

ですから、聖書が本当に読めませんと、祈りは発生しません。聖書が読めてこないと、祈る言葉すら出てきません。とってつけたような形式的な祈りは、祈りではありません。神様の御思いがひたひたと伝わってくると、私たちの魂に熱い燃えるものが湧き起こってきます。それが言葉になって、祈りになるのです。

2 体当たり的な祈り「聖霊」

「天にまします我らの父よ」と祈りなさい、と聖書には書いてあります。それを「御唱え」する。それは祈りではありません。祈りというのは自然な発露でほとばしり出るものです。つまり、祈りは神に対する応答。ですから、神様からの語りかけがわからなければ応答もまた不可能です。聖書を読んで熱いものがみなぎってきた時に、それが思わず知らず言葉になります。叫びになります。それが祈りなのです。それは体当たり的で全身的です。これが、体当たり的な祈りです。

それは霊的なものです。「聖霊」の働きがそこに必ずあります。霊的祈りは頭で考えません。頭で整理してみんなが感動してくれるような言葉を探すのではありません。そう祈らずにはいられない、そんな言葉になってしまうのです。それはただの言葉ではありません。叫びであるし、涙であります。それは自分ではどうすることもできない何かひとつの音声です。ある時は異言になります。そのようにして私たちは神様の語りかけに対して主体的に人格的に応えていきます。

そして、その祈りが満ち満ちてきますと、私たちは黙っておれません。それは愛の実践につながっていきます。その祈りが実際行動に波及していきます。そのほとばしり出る祈りは行動にならざるを得ません。祈っているのだけれども実際行動はしないということはできない話です。行動しないことの方がつらく苦しいのです。ぐーっと満ち満ちているものに蓋をする、栓をするようなものなので、爆発してしまいます。ほとばしり出るものはすっと流れになっていくもので、それが実践です。愛の実践奉仕です。

3 愛の実践奉仕「惠泉塾・ヴィタボート」

祈る私たちは隣人を愛さずにおれません。相手の必要に対して応えずにおれない、そういう迫りを感じます。それは実際行動になっていきます。ですから、飢えた人を見て、そこに食物を提供せずにおれないのです。寒い人がいたらオーバーを着せてあげないわけにはいかない。孤独な人がいたら、その人に寄り添わずにはおれない。病んでいる人がいたら、その人を癒さずにはおれない。貧しい人がいたら、その人と富を分かち与わずにはおれません。それは、祈りがおのずから行動に転化するということです。愛の実践奉仕は、立ち上がって何か構えてしなければならないということではありません。祈りの結果です。みことばを学べば祈りがほとばしり出てくる。祈りはこうして、実際の愛の行為に転化していきます。

この「聖書」と「祈り」と「愛の実践」は、ひとつのものです。祈っているけれども実践をしないとか、読んではいるが祈らないということはありません。本当に聖書が読めるようになれば、祈らずにおれないし、祈っていれば行為せずにはおれません。そしてその行為の中から、また祈りが生まれてきます。行為の中から聖書の味わいが深まっていきます、「ああ聖書のあの箇所はこういうことを言っていたのか。」というのは、愛の実践をした者だけがわかる聖書の読み方です。ですから、聖書の読みと祈りと実践は互いに補い合い、支え合い、促し合って、三つ巴になっていくのです。それが、信仰の自然なありようです。

聖書は一生懸命読むのだけれど、冷たいお析り、社会に対して何ら働きかけがないという生活があるなら、それは嘘です。そんなものはあるはずがありません。三者の連動は必然です。

ですから、この日本キリスト召団はきわめて実践的なグループです。愛の実践は必然伴います。それを義務的にするような集団ではありません。

4 啓示に基づく聖礼典の実施

私たちは聖礼典(洗礼と聖餐式)を施しますから、教会であります。無教会ではありません。私たちは内村鑑三の流れです。私は内村鑑三の教えを受けて、信仰生活を始めました。けれども、内村鑑三とは大いに違います。それは、洗礼と聖餐式を実践しているからです。これは諸教会の真似をしたのではありません。ある時、上から直接啓示を受けたのです。「洗礼を授けるように。聖餐式を行うように。」と言われた主は、同時にその深い意味についても教えてくれました。

《聖餐式》

パンはイエス・キリストの「身体」であり、「いのちのパン」です。それはイエスの「みことば」であり、十字架にかけられたイエスの「みからだ」の象徴です。

「パン割き」とは、そのみからだを引き裂くということです。キリストがいのちを捨てるということを通して、私たちの内にいのちを流そうという神の行為なのです。

ですから私たちはパンを食べます。そのパンはよく噛んで飲み下します。すると、私たちの体内で血肉となります。

イエスのみことばもそうです。聞いているだけではだめです。そのみことばを実践する時、みことばは私たちの内でいのちとなり、私たちを造り変えていきます。みことばは聞くだけではまったく意味がありません。それを生活実践した時に初めてみことばの内にあるいのちが流れてきます。

そのいのちの実態は愛です。私たちは愛するために生きているのです。隣人を愛さないいのちというものは、聖霊の愛ではないし、いのちですらありません。神が私たちにくださる永遠のいのちは、愛という形で、私たちを突き動かしていきます。パンを食べる時に、そのことを思い浮かべるのです。

次に、ぶどう酒についてですが、ぶどう酒はアルコールです。私たちが聖餐式で用いているのはぶどうジュースではありません。聖書の中でもイエス様はぶどうジュースではなくぶどう酒、お酒を私たちに提供しました。

それはアルコールです。滅菌作用があります。傷口を消毒します、そしてまた、これは気付け薬でもあります。気を失った人が、ぶどう酒を口に含むことによって目を覚ます。そしてまた、そのぶどう酒は祝いの杯です。婚宴にはつきものです。これは天国で私たちが花婿なるキリストと結婚をする、その祝いの杯です。

それはまた聖霊の働きです。盟主霊は私たちに目を覚まさせます。私たちの罪を洗い清めます。そして、それは私たちが天国人であることのしるしです。

パンとぶどう酒はそのような意味で私たちに提供されているということを、私は上から啓示されました。私たちはその日から、聖餐式を始めたのです。私たちの洗礼と聖餐式は神から命じられた聖なる儀式です。ですから、伝統的に教会の教えに従ったのではありません。

パウロもまた、そのようでありました。パウロは最後の晩餐におりませんでしたが、キリストから啓示を受けて、その最後の晩餐をキリストが弟子と楽しまれた時のように、あなたがたの愛餐ごとに、「わたしの記念として、このように行いなさい。」と言い、それが教会に伝わりました。

パウロが上から啓示を受けたように、私たちもまた上から啓示を受けて、この聖礼典を実施しています。それはほかの教会と違います。

私たちの聖餐式に参加して、皆さん感動なさいます。それは極めて厳粛であるからです。私たちが十字架のキリストを思い浮かべながら、その恵みに浴することを自覚して行なうので厳粛なのです。その意味について、初めて聞いたというクリスチャンも多くいらっしゃいます。教会では聖礼典についての意味合いというものを一般的に説明しません。私たちは直接啓示を受けて、その意味の深いところを教えられました。

《洗礼式》

内村鑑三は水の洗礼を空しい儀式として退けましたが、私は一九八八年の夏、ある一家が受洗を希望して来られた時に、それまで無教会主義で、洗礼を授けていませんでしたのでどうすべきか神様に伺いました。神様は祈りの中で、授けるように、と示され、私は塩谷の川で初めて洗礼式を行いました。

それは今も生き生きと思い出すことのできる体験でした。夫人を川床に横たえて沈めた時、この人は今、死んだのだ、と実感しました。後頭部を私の右手に委ねて、脚は私の左手に押さえられて、自分では水から起き上がることができません。夫人の命は、私の手に完全に任せられているのです。

次の瞬間、私は夫人の頭を持ち上げ、上半身を水から引き上げました。夫人は新鮮な空気を吸って目を開けました。一切の過去は洗い流され、この人は今、生まれ変わったのです。

死と蘇りの強烈な印象が私の心を捕え、私はキリスト教の秘儀が水の洗礼の儀式の中に「言葉」ではなく「行為」という形で畳み込まれていたことに気づかされました。

夫人は自宅にお帰りになって、ご自分が内面的に変化していることに気づかれました。それまでは身勝手に思える妹に対して嫌悪感を拭えなかったのに、彼女を心から歓迎している自分がいたからです。夫人にとって、洗礼は空しい儀式ではなく、「愛する者」に変えていただく、再創造の神の「みわざ」と言えます。それは人生の再出発の目、過去の人生を水に洗い流し、新しいいのちで仕切りなおしをする、その新しい人生のスタートです。そういう聖礼典の意味を、神様は私たちに教えてくださいました。

私は、それ以来、毎年たくさんの希望者に洗礼を授けるようになりました。その時与える洗礼名(クリスチャン・ネーム)は、その人が生まれ変わった「しるし」です。

5 自由献金制

私たちのところでは、礼拝の時に献金箱や袋を回すことをいたしません。月定献金の袋もありません。私たちはそれぞれ、自分の祈りの中で示された額を自由に献げるのです。献金はまったく自発的なもので、それは私たちの神様に対する感謝の表れです。

日本キリスト召団では、献金で飯を食っている者はおりません。私も百姓をやっております。長い間高校教師をしておりました。自分の生活は自分でまかなってきました。ですから、みことばを語ることは私の奉仕であって、飯の種ではありません。

日本キリスト召団の牧会者は、皆自分で稼いでおります。自分で生活をまかないます。パウロも天幕張りの仕事で稼ぎました。それだけでなく、共にいる自分の弟子の生活まで面倒をみました。みことばを聞く人たちに負担をかけない。それは彼のプライドです。ですから、捧げられた献金はすべて神様のために用いられます。それで牧師を養っているのではありません。私たちは信徒がゼロになっても生きていきます。それは信徒に飯を食わせてもらっているのではないからです。

ただ、水を割らない正しい福音を宣べ伝える、そして、信徒の皆さんがそれによって息を吹き返し、有意義な人生を送ってくださること、神様を喜ばせてくださること、社会が神の目に麗しくよみがえっていくことを、私たちは期待しています。

日本キリスト召団が、一年間で皆さんから受ける献金は巨額です。高額の献金をいただいて、教会や惠泉塾を運営しています、ですから、建物も建ちます。多くの人を無料で食べさせていくことができます。それだけ巨額の献金が寄せられているからです。それだけではありません。実際に惠泉塾には、お米・肉・野菜・魚・お菓子・調味料と、ありとあらゆるものを、クロネコヤマトが毎日運んできます。そうして、全国から贈り物が届きます。余市の惠泉塾は、全国の産物がテーブルに並びます。本当に山海の珍味にあふれております。それだけの恵みを受けて、惠泉塾は大きくなっているのです。それが日本キリスト召団の愛の実践奉仕の姿です。

また、私たちはヴィタポートという株式会社を経営しております。そこで、若者たちに働く場を提供しています。私たちは若い人たちにお給料を払い、自分の手で稼いで、社会人として生きていく術をつかんでもらいたいと願っています。私たちの愛の実践は、極めて具体的です。現実的です。ただ「祈っているよ。」と言うのではありません。それを形にして、その人たちが社会で本当に活き活きと生きて、社会で光となっていただくために実際的な支援をします。「あなたがたは世の光である。地の塩である。」と聖書にあります。愚かなばかり正直であり、どんなにいじめられてもへこたれず、踏まれても踏まれても立ち上がる、そういうしなやかで、我慢強く、積極的な魂が、社会的にはどんなに弱くても、社会の腐敗を防ぐ地の塩になっていく。そういう若者たちがどんどん社会に巣立っていくことを私たちは願っています。それがヴィタポートの働きです。

もし、この日本キリスト召団の柱になろうと恩われるなら、どうぞ、こういうすばらしい働きに積極的に参与してください。時間を捧げ、労力を捧げ、知恵知識を捧げ、あるいは、献金を捧げる。持てる多くのものを神様にお返しして、聖なる働きがいよいよ日本に広がり、世界に広がっていくようにと、参加していただきたいのです。
この日本キリスト召団のホームページは全世界で読まれています。ハワイでも、アメリカでも、ドイツでも、オーストラリアでも。全世界にちらばっている日本人が、熱い目をそのホームページに注いでいます、それは、全世界にちらばっている日本人が苦しんでいるからです。日本で苦しむだけではありません。ハワイでも、ワシントンでも苦しんでいます。その私たちの同胞に本当のいのちを伝える。それが私たちの仕事です。

6 超教派、地下水的宣教奉仕

私たちは超教派です。日本キリスト教団も招いてくださいます。ペンテコステ系の教会も賛同してくださいます。福音派の教会にも、パプテスト系の教会にも、カトリックのシスターの修養会にも招かれて出向いて行きます。私たちはカトリック、プロテスタントを超えて、あらゆる教会教派に歓迎されています。私たちは超教派です。

しかし、私たちは大都会の街の真ん中に目立つ殿堂を建てたりしません。私たちは自分を高い舞台の上に乗せようとは思っていません。目立つところに行こうと思っていません。私たちは地下水なのです。しかし、全ての地上の植物は、地下水を吸って元気に育っていきます。私たちは地下水ですから、たくさんの教会に命を運びますが、私たち自身を表には出しません。私たちは用いていただければよいのです。私たちが神様からいただいた全ての恵みは、多くの人の共有財産です。私たちは独占しません。みなさんに用いていただき、利用していただきたい、と願っています。そして、皆さんが元気になっていただければよいのです。私たちはやがて消えていく存在です。決して永遠の存在として何か大きなモニュメントを建てる気はありません。私たちは地下水です。それが私たちの宣教の特徴です。