札幌キリスト召団について

沿革

現牧者・水谷惠信は、カトリック教会、浜松バプテスト教会で求道し、1968年10月30日正午、主の御声を聞き、聖書の神に従うことになりました。翌年春、聖霊体験をし、以後、小池辰雄の群れ、札幌キリスト召団に所属することになりました。1982年6月26日小池辰雄の宣言により札幌キリスト召団が設立され、水谷が責任者に指名されました。同年12月21日、天より終末を啓示され、少年院、老人ホーム、精神障害者社会復帰施設で奉仕し、同時に高校教師と無教会的家庭集会を続けました。
この頃より神の奇跡が続発しました。1991年3月24日、札幌に信仰の拠点「祈りの家」が建ち、9月30日、宗教法人となりました。1988年、啓示によって洗礼と聖餐式の奥義を教えられ、教会化を推進していく途上、1995年10月11日、再び天の啓示によって「人生の波止場づくり」を指示されました。翌年3月教職を辞して余市に10町歩の果樹園を入手し、信仰に基づく人生道場としての共同生活(惠泉塾)を始めるに至りました。
爾来、十年間に700名近い人々が塾生活の体験を通して、抱えていた問題の解決を得、神の鮮やかな御力を見せられています。ゆるやかなペースで塾生活になじむための「プレ惠泉塾」、長期滞在者のための「惠泉祈りの家」、男子寮「新惠泉庵」、半独立の生活をしつつ塾活動に参加する「惠泉荘」と「惠泉ロッジ」、老人と若者が助け合いながら暮らす「惠泉館」が建ちました。

果樹と野菜畑を中心とした農園(惠泉農園)、40羽の鶏舎があり、40町歩の「惠泉山」は惠泉牧場(ヤギ、鶏)になろうとしています。農産加工品販売部門(惠泉アモスファクトリー)、木工場(惠泉ノア製作所)、パン工場(惠泉マナベーカリー)を併設し、生活から生まれたオリジナル作品を送り出しています。それらは2005年8月に有限会社ヴィタポート(2007年2月より株式会社)の活動として独立し、2007年現在、さらに出版(文泉書院)、訪問看護(惠泉マリア訪問看護ステーション)、葬祭業(ハレルヤ典礼)、イベント企画、保険業(ヴィタポート愛)、旅館(丹波の宿恵泉)とレストラン(丹波鈴)が加わっています。
こうしたヴィタポートの各々の事業所は惠泉塾を卒業した人々の社会復帰の訓練の場として用いられています。一方、惠泉塾活動は北海道から沖縄まで全国に広がり、各地で定期集会が持たれています。また以上の活動の様子は「壊れた私、元気になった」(マナ・ブックス刊)、「手渡そう、子どもに生きる力」(キリスト新聞社刊)、「命の泉を掘りあてる」(キリスト新聞社刊)、「聖翼の蔭」(キリスト新聞社刊)の著作やハーベストタイムやライフ・ラインのテレビ番組で伝えられ、大きな反響を呼んでいます。

教義

札幌キリスト召団はパウロが書簡の中で述べている「エン・クリスト」(キリストにおいて、キリストにあって)を標榜し、2000年前の使徒たちの信仰に立ち帰り、そこから新たに出発しようという新宗教改革を唱えています。
信仰の根本構造は聖書の身読と聖霊に促された祈りの内にキリストの十字架(キリストの贖罪愛、即ち自己犠牲の愛)を体で受け止め、各自がおかれた生活現場で聖霊に満たされて愛の実践奉仕に挺身することにあります。
十字架と聖霊は楕円の2焦点で、信徒の生活は、この贖罪と愛の実践という2焦点をもつキリストという太陽を廻って楕円軌道を描きながら、遂にはキリストの似姿に化せられるまで求心的に前進してやまないものである、と考えています。
洗礼と聖餐式は十字架と復活(古き自己に死んで新しきキリストの命に甦る)という福音的奥義を体で理解する天来の恵みとして行われています。

教会の特徴

さらに札幌キリスト召団をよりよく理解していただくために以下に特徴を6つにまとめてみました。

1 聖書の身読「神の側から読む」

「聖書を身体で読む」ということが、この教会の第一の特徴です。目で読むのではない、頭で読むのではない、身体で読むということです。それは生活体験的に読むということです。学者のように研究するのではありません。自分の生活に即して読んで、生きている、ということです。ほかの教会の信徒さんが私たちの集いに来られて一番感じられるのは、「この集いの聖書の読み方は非常に生活実践的だ。」という感動です。私たちは頭の先で読みません。理屈で読みません。生活の裏づけのある読み方をします。それが身読です。
私たちの身読の特徴は、「神の側から読む」ということです。多くの人は聖書を自分の側から読みます。救われる側、恵みを受ける側から読みます。すると、非常に手前勝手な読み方になります。自分にとっては「こうあってほしい」という読み方です。それで不都合なところは無意識的に読み飛ばすことになります。そういう読み方は正しくありません。神の作品に向かう大切な心得は筆者の側から読むということです。筆者が何を訴えたいと思って書いたか、その筆者の立場に立って読むこと、これが神の側から読むということです。
その読み方をすると神の心が伝わってきます。書き手の側の思いがひたひたと伝わってきます。すると、それは私たちの魂を揺さぶらないではいません。神様の愛ということがわかってくるからです。この天地万物の造り主がどんな思いで私たちを見つめておられるか、期待しておられるか、招いておられるか、それがわかってくるのです。それで、それに応えたいという思いが湧いてきます。それは、自然の発露として、祈りに変わっていきます。
ですから、聖書が本当に読めませんと、祈りは発生しません。聖書が読めてこないと、祈る言葉すら出てきません。とってつけたような形式的な祈りは、祈りではありません。神様の御思いがひたひたと伝わってくると、私たちの魂に熱い燃えるものが湧き起こってきます。それが言葉になって、祈りになるのです。

2 体当たり的な祈り「聖霊」

「天にまします我らの父よ」と祈りなさい、と聖書には書いてあります。それを「御唱え」する。それは祈りではありません。祈りというのは自然な発露でほとばしり出るものです。つまり、祈りは神に対する応答。ですから、神様からの語りかけがわからなければ応答もまた不可能です。聖書を読んで熱いものがみなぎってきた時に、それが思わず知らず言葉になります。叫
びになります。それが祈りなのです。それは体当たり的で全身的です。これが、体当たり的な祈りです。
それは霊的なものです。「聖霊」の働きがそこに必ずあります。霊的祈りは頭で考えません。頭で整理してみんなが感動してくれるような言葉を探すのではありません。そう祈らずにはいられない、そんな言葉になってしまうのです。それはただの言葉ではありません。叫びであるし、涙であります。それは自分ではどうすることもできない何かひとつの音声です。ある時は異言になります。そのようにして私たちは神様の語りかけに対して主体的に人格的に応えていきます。
そして、その祈りが満ち満ちてきますと、私たちは黙っておれません。それは愛の実践につながっていきます。その祈りが実際行動に波及していきます。そのほとばしり出る祈りは行動にならざるを得ません。祈っているのだけれども実際行動はしないということはできない話です。行動しないことの方がつらく苦しいのです。ぐーっと満ち満ちているものに蓋をする、栓をするようなものなので、爆発してしまいます。ほとばしり出るものはすっと流れになっていくもので、それが実践です。愛の実践奉仕です。

3 愛の実践奉仕「惠泉塾・ヴィタボート」

祈る私たちは隣人を愛さずにおれません。相手の必要に対して応えずにおれない、そういう迫りを感じます。それは実際行動になっていきます。ですから、飢えた人を見て、そこに食物を提供せずにおれないのです。寒い人がいたらオーバーを着せてあげないわけにはいかない。孤独な人がいたら、その人に寄り添わずにはおれない。病んでいる人がいたら、その人を癒さずにはおれない。貧しい人がいたら、その人と富を分かち与わずにはおれません。それは、祈りがおのずから行動に転化するということです。愛の実践奉仕は、立ち上がって何か構えてしなければならないということではありません。祈りの結果です。みことばを学べば祈りがほとばしり出てくる。祈りはこうして、実際の愛の行為に転化していきます。
この「聖書」と「祈り」と「愛の実践」は、ひとつのものです。祈っているけれども実践をしないとか、読んではいるが祈らないということはありません。本当に聖書が読めるようになれば、祈らずにおれないし、祈っていれば行為せずにはおれません。そしてその行為の中から、また祈りが生まれてきます。行為の中から聖書の味わいが深まっていきます、「ああ聖書のあの箇所はこういうことを言っていたのか。」というのは、愛の実践をした者だけがわかる聖書の読み方です。ですから、聖書の読みと祈りと実践は互いに補い合い、支え合い、促し合って、三つ巴になっていくのです。それが、信仰の自然なありようです。
聖書は一生懸命読むのだけれど、冷たいお析り、社会に対して何ら働きかけがないという生活があるなら、それは嘘です。そんなものはあるはずがありません。三者の連動は必然です。
ですから、この札幌キリスト召団はきわめて実践的なグループです。愛の実践は必然伴います。それを義務的にするような集団ではありません。

4 啓示に基づく聖礼典の実施

私たちは聖礼典(洗礼と聖餐式)を施しますから、教会であります。無教会ではありません。私たちは内村鑑三の流れです。私は内村鑑三の教えを受けて、信仰生活を始めました。けれども、内村鑑三とは大いに違います。それは、洗礼と聖餐式を実践しているからです。これは諸教会の真似をしたのではありません。ある時、上から直接啓示を受けたのです。「洗礼を授けるように。聖餐式を行うように。」と言われた主は、同時にその深い意味についても教えてくれました。

《聖餐式》
パンはイエス・キリストの「身体」であり、「いのちのパン」です。それはイエスの「みことば」であり、十字架にかけられたイエスの「みからだ」の象徴です。
「パン割き」とは、そのみからだを引き裂くということです。キリストがいのちを捨てるということを通して、私たちの内にいのちを流そうという神の行為なのです。
ですから私たちはパンを食べます。そのパンはよく噛んで飲み下します。すると、私たちの体内で血肉となります。
イエスのみことばもそうです。聞いているだけではだめです。そのみことばを実践する時、みことばは私たちの内でいのちとなり、私たちを造り変えていきます。みことばは聞くだけではまったく意味がありません。それを生活実践した時に初めてみことばの内にあるいのちが流れてきます。
そのいのちの実態は愛です。私たちは愛するために生きているのです。隣人を愛さないいのちというものは、聖霊の愛ではないし、いのちですらありません。神が私たちにくださる永遠のいのちは、愛という形で、私たちを突き動かしていきます。パンを食べる時に、そのことを思い浮かべるのです。
次に、ぶどう酒についてですが、ぶどう酒はアルコールです。私たちが聖餐式で用いているのはぶどうジュースではありません。聖書の中でもイエス様はぶどうジュースではなくぶどう酒、お酒を私たちに提供しました。
それはアルコールです。滅菌作用があります。傷口を消毒します、そしてまた、これは気付け薬でもあります。気を失った人が、ぶどう酒を口に含むことによって目を覚ます。そしてまた、そのぶどう酒は祝いの杯です。婚宴にはつきものです。これは天国で私たちが花婿なるキリストと結婚をする、その祝いの杯です。
それはまた聖霊の働きです。盟主霊は私たちに目を覚まさせます。私たちの罪を洗い清めます。そして、それは私たちが天国人であることのしるしです。
パンとぶどう酒はそのような意味で私たちに提供されているということを、私は上から啓示されました。私たちはその日から、聖餐式を始めたのです。私たちの洗礼と聖餐式は神から命じられた聖なる儀式です。ですから、伝統的に教会の教えに従ったのではありません。
パウロもまた、そのようでありました。パウロは最後の晩餐におりませんでしたが、キリストから啓示を受けて、その最後の晩餐をキリストが弟子と楽しまれた時のように、あなたがたの愛餐ごとに、「わたしの記念として、このように行いなさい。」と言い、それが教会に伝わりました。
パウロが上から啓示を受けたように、私たちもまた上から啓示を受けて、この聖礼典を実施しています。それはほかの教会と違います。
私たちの聖餐式に参加して、皆さん感動なさいます。それは極めて厳粛であるからです。私たちが十字架のキリストを思い浮かべながら、その恵みに浴することを自覚して行なうので厳粛なのです。その意味について、初めて聞いたというクリスチャンも多くいらっしゃいます。教会では聖礼典についての意味合いというものを一般的に説明しません。私たちは直接啓示を受けて、その意味の深いところを教えられました。

《洗礼式》
内村鑑三は水の洗礼を空しい儀式として退けましたが、私は一九八八年の夏、ある一家が受洗を希望して来られた時に、それまで無教会主義で、洗礼を授けていませんでしたのでどうすべきか神様に伺いました。神様は祈りの中で、授けるように、と示され、私は塩谷の川で初めて洗礼式を行いました。
それは今も生き生きと思い出すことのできる体験でした。夫人を川床に横たえて沈めた時、この人は今、死んだのだ、と実感しました。後頭部を私の右手に委ねて、脚は私の左手に押さえられて、自分では水から起き上がることができません。夫人の命は、私の手に完全に任せられているのです。
次の瞬間、私は夫人の頭を持ち上げ、上半身を水から引き上げました。夫人は新鮮な空気を吸って目を開けました。一切の過去は洗い流され、この人は今、生まれ変わったのです。
死と蘇りの強烈な印象が私の心を捕え、私はキリスト教の秘儀が水の洗礼の儀式の中に「言葉」ではなく「行為」という形で畳み込まれていたことに気づかされました。
夫人は自宅にお帰りになって、ご自分が内面的に変化していることに気づかれました。それまでは身勝手に思える妹に対して嫌悪感を拭えなかったのに、彼女を心から歓迎している自分がいたからです。夫人にとって、洗礼は空しい儀式ではなく、「愛する者」に変えていただく、再創造の神の「みわざ」と言えます。それは人生の再出発の目、過去の人生を水に洗い流し、新しいいのちで仕切りなおしをする、その新しい人生のスタートです。そういう聖礼典の意味を、神様は私たちに教えてくださいました。
私は、それ以来、毎年たくさんの希望者に洗礼を授けるようになりました。その時与える洗礼名(クリスチャン・ネーム)は、その人が生まれ変わった「しるし」です。

5 自由献金制

私たちのところでは、礼拝の時に献金箱や袋を回すことをいたしません。月定献金の袋もありません。私たちはそれぞれ、自分の祈りの中で示された額を自由に献げるのです。献金はまったく自発的なもので、それは私たちの神様に対する感謝の表れです。
札幌キリスト召団では、献金で飯を食っている者はおりません。私も百姓をやっております。長い間高校教師をしておりました。自分の生活は自分でまかなってきました。ですから、みことばを語ることは私の奉仕であって、飯の種ではありません。
札幌キリスト召団の牧会者は、皆自分で稼いでおります。自分で生活をまかないます。パウロも天幕張りの仕事で稼ぎました。それだけでなく、共にいる自分の弟子の生活まで面倒をみました。みことばを聞く人たちに負担をかけない。それは彼のプライドです。ですから、捧げられた献金はすべて神様のために用いられます。それで牧師を養っているのではありません。私たちは信徒がゼロになっても生きていきます。それは信徒に飯を食わせてもらっているのではないからです。
ただ、水を割らない正しい福音を宣べ伝える、そして、信徒の皆さんがそれによって息を吹き返し、有意義な人生を送ってくださること、神様を喜ばせてくださること、社会が神の目に麗しくよみがえっていくことを、私たちは期待しています。
札幌キリスト召団が、一年間で皆さんから受ける献金は巨額です。高額の献金をいただいて、教会や惠泉塾を運営しています、ですから、建物も建ちます。多くの人を無料で食べさせていくことができます。それだけ巨額の献金が寄せられているからです。それだけではありません。実際に惠泉塾には、お米・肉・野菜・魚・お菓子・調味料と、ありとあらゆるものを、クロネコヤマトが毎日運んできます。そうして、全国から贈り物が届きます。余市の惠泉塾は、全国の産物がテーブルに並びます。本当に山海の珍味にあふれております。それだけの恵みを受けて、惠泉塾は大きくなっているのです。それが札幌キリスト召団の愛の実践奉仕の姿です。
また、私たちはヴィタポートという株式会社を経営しております。そこで、若者たちに働く場を提供しています。私たちは若い人たちにお給料を払い、自分の手で稼いで、社会人として生きていく術をつかんでもらいたいと願っています。私たちの愛の実践は、極めて具体的です。現実的です。ただ「祈っているよ。」と言うのではありません。それを形にして、その人たちが社会で本当に活き活きと生きて、社会で光となっていただくために実際的な支援をします。「あなたがたは世の光である。地の塩である。」と聖書にあります。愚かなばかり正直であり、どんなにいじめられてもへこたれず、踏まれても踏まれても立ち上がる、そういうしなやかで、我慢強く、積極的な魂が、社会的にはどんなに弱くても、社会の腐敗を防ぐ地の塩になっていく。そういう若者たちがどんどん社会に巣立っていくことを私たちは願っています。それがヴィタポートの働きです。
もし、この札幌キリスト召団の柱になろうと恩われるなら、どうぞ、こういうすばらしい働きに積極的に参与してください。時間を捧げ、労力を捧げ、知恵知識を捧げ、あるいは、献金を捧げる。持てる多くのものを神様にお返しして、聖なる働きがいよいよ日本に広がり、世界に広がっていくようにと、参加していただきたいのです。
この札幌キリスト召団のホームページは全世界で読まれています。ハワイでも、アメリカでも、ドイツでも、オーストラリアでも。全世界にちらばっている日本人が、熱い目をそのホームページに注いでいます、それは、全世界にちらばっている日本人が苦しんでいるからです。日本で苦しむだけではありません。ハワイでも、ワシントンでも苦しんでいます。その私たちの同胞に本当のいのちを伝える。それが私たちの仕事です。

6 超教派、地下水的宣教奉仕

私たちは超教派です。日本キリスト教団も招いてくださいます。ペンテコステ系の教会も賛同してくださいます。福音派の教会にも、パプテスト系の教会にも、カトリックのシスターの修養会にも招かれて出向いて行きます。私たちはカトリック、プロテスタントを超えて、あらゆる教会教派に歓迎されています。私たちは超教派です。
しかし、私たちは大都会の街の真ん中に目立つ殿堂を建てたりしません。私たちは自分を高い舞台の上に乗せようとは思っていません。目立つところに行こうと思っていません。私たちは地下水なのです。しかし、全ての地上の植物は、地下水を吸って元気に育っていきます。私たちは地下水ですから、たくさんの教会に命を運びますが、私たち自身を表には出しません。私たちは用いていただければよいのです。私たちが神様からいただいた全ての恵みは、多くの人の共有財産です。私たちは独占しません。みなさんに用いていただき、利用していただきたい、と願っています。そして、皆さんが元気になっていただければよいのです。私たちはやがて消えていく存在です。決して永遠の存在として何か大きなモニュメントを建てる気はありません。私たちは地下水です。それが私たちの宣教の特徴です。