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6月 衣鉢を継ぐということ ~札幌キリスト召団夏期福音特別集会の今年のテーマ~

 主イエスは救済預言の成就としてご自身を現された。大勢の群衆が現実的な問題解決のために慰めに満ちた言

葉や力強い奇跡を期待して主の下に来たが、人々の罪を赦し、神の子とするために主が辿られた十字架の道行きを理解する者は、当時ほとんどいなかった。  主イエスの真の弟子は、それほど多くなかった。彼らは復活の主に出会い、聖霊を受けて新しく生まれ変わり、生くるも死ぬも主のためと、苦難に満ちた伝道の生涯を駆け抜け、福音を地の果てまで伝えた。彼らの地上の生涯は、この世的には決して恵まれなかったが、主をお喜ばせしたのは何より彼らの捨て身の人生だった。  私たちが救われたのは主を喜ぶためだけではない。実に主と苦難を共にするためでもあった。それを真に理解する人は決して多くない。主に従おうと決意の程を披瀝した律法学者も「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子、私には枕するところがない。それでもあなたは私に従って来るか」と言われて返答に窮した。主は言われた。「命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない」。  人々は言う。神が愛であるなら、我々を苦しみから解放してくれるだけで充分だ。この上、なぜ苦難を与えようとするのか、我々はホッとするために主の下に来たのだと。確かに神は愛である。否、愛であるがゆえに、私たちが世の幸福に満足し、やがて滅ぶべきこの世に腰を落ち着けてしまうのを許し給わないのだ。「キリストの苦難にあずかってその死の様と等しくなり、死人のうちからの復活に達するために、むしろ苦難を喜ぶ」とパウロが言うとき、彼は苦難のうちに秘められた恩寵を私たちに伝えようとしていたのだ。  死の淵から永遠の命へと主に贖い出されたとき、私たちはどんなに感激しただろう。だが、この救い主の促しに私たちはどれほど従い得ているか。10人のらい病人が主の憐れみを受けて癒されながら、神を褒めたたえるために主の下に帰って来たのはたった一人だった。まして、救われた感激を主への愛にまで高め、愛のゆえに生涯を献げ尽くす奴隷はどこにいるか。50年の伝道生活を踏み越えた老師の衣鉢を継ぐ者こそ、それである。(「エン・クリスト」1994年4月特別号より)  これは23年前、小池辰雄先生主宰の雑誌「エン・クリスト」に発表された水谷幹夫先生の文章である。最後の文中の「老師」には「小池辰雄先生のこと」という(注)がある。  小池辰雄先生の衣鉢を継ぐ者として走り抜かれた水谷先生の、伝道生涯49年目の今年、札幌キリスト召団夏期福音特別集会のテーマは「衣鉢を継ぐ」と決まった。世代交代の時期の到来を、師よりはっきり宣言される集いとなりそうだ。小池先生56年、水谷先生49年、何という烈々たる主の僕の人生だろう。聖霊の火を投じられた弟子たちは主に接ぎ木されて主の僕となり、みんな別人の如く生まれ変わって大胆にイエスの福音を語り出し、捨て身で人を愛し、奇跡のうちを生き抜いた。 私たちは生きて働くまことの神を知っている。その底知れない愛と憐れみと偉大な力を35年間、現実に見たからだ。私たち召団員一人ひとりが彼らの衣鉢を継ぐ者となることを、主は熱く期待され、待ち望まれている。そのためにも、今年の聖会の「祈り込み会」には召団員が一つとなって全身全霊を投じ、主ご自身を待ち望みたい。