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5月 美しく年老いるために ~ 水谷幹夫先生38歳のときの寄稿より ~

邂逅という言葉があります。人生の決定的出会いを表現するのに使われます。人生には様々な出会いがありますが、とりわけ老人と若者の出会いの場合、この言葉が深い味わいを表してくれるように思います。
若者は人生を如何に生きるべきか、に行き迷っています。どれほど優れた人であっても、若者である限り、人生の山の頂上に立つことは不可能で、見通しの立たない山の中腹からかなたの雲間に見え隠れする頂上を遥か仰ぎ見る位置に立つのです。それはまた、大海原の前に一人立たされた者の不安と言い替えても良いでしょう。水平線のかなたに何があるのか見えないのです。しかも、目の前に広がる海はあまりに大きく、どちらに方向を定めて漕ぎ出せば良いのか見当がつきません。その上、笹舟のような自分の力量で一体どこまで波を乗り越えて行けるというのでしょうか。浜辺にたたずんで戸惑う若者は、時の力に促されて無謀な舟出を余儀なくされる前に、藁をも縋る思いで権威を求めます。
おまえはこちらへ行け。それがおまえに一番ふさわしい、と確信をもって断言してくれる人はいないか、と思うのです。
老人は人生を歩きつめた頂点に立っています。前途ほど遠しと思いつつ、残された寿命と余力とを目算し、あと幾つ峠を越えられるだろうか、と見通しを立てることでしょう。来し方を顧みれば後悔は尽きず、前途は夕暮れの雲のかなたに続いています。老人は百歳まで生き続けて、這ってもずっても行けるところまで行きたい、と鬼気迫る情熱で思いつめています。
こうした二人の出会いこそ理想的な邂逅でしょう。その道の達人である老人は若者の内に優れた崩芽を見いだす眼力を備えています。自分の開拓してきた一筋道を自分の倒れたところから歩き続けてくれる若者を老人は探し求めているのです。若者には何の実績もなく自信もありません。ただ若さがあるだけなのですが、その人の内に優れた崩芽を見いだし得た老人にとって魅力なのは、その若さが持っている限りない可能性なのです。
期待に応えて裏切らない若者を見いだし得た老人は何と幸福な人でしょう。彼は立ち止まり、折にふれ時を捕らえては若者に夢を語ります。追求してなお得られない果てしない夢、日々見続けて細部まで熟知している親しい夢を、生き生きと情熱を込めて語ります。あるときは晩餐を共にしつつ、あるときは喫茶室の片隅で、またあるときは大自然の懐に抱かれて、若者は老人の言葉に聴き入り、その夢に魅了され、老人の思いを若い心の襞に写し取ってゆくのです。何にも代え難く甘美な時よ!
それから老人は再び歩き始めます。若者の手をとり、ゆっくりとした足取りで若者の歩調に合わせながら歩いてゆきます。若者も誘われるままに陶然たる心地で歩き出します。世の中にかくも麗しい夢があったとは、と感嘆しつつ、この夢に己が命を賭けずして何の人生ぞや、と叫び出したくなるのを押さえつつ。
訓練の年月が果てて、これから先は一人で歩いて行けと命ぜられるとき、若者は自分の中に確かな新芽が吹き出し、形を成しつつあることを自覚しています。老人譲りの夢を遠望しつつ、内なる若芽を自覚しつつ、若者は大海原に乗り出して行きます。そのときこそ真の人生の船出が始まるのです。
若者よ、あなたはこれが非現実的な夢物語だと思いますか。確かに私共の周囲にはこうした邂逅の体験を持つ人が少ないので、これを稀有のことと思いがちですが、歴史的にはこうした邂逅の伝統は連綿として続いています。その伝統の上に立って私も体験的告白としてこれを書き綴っているのです。もしあなたが今なお行き悩み、真の人生を始めておられないとするなら、それはあなたがこうした人生最大の出会いを期待していないからではありませんか。
年老いた方は、あなたは今の若者に期待できる人がほとんどいない、と失望しておいでですか。伯楽の故事を想い出してください。千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず。あなたが伯楽であることが期待されているのです。平凡な私には無理だ、と逃げてはなりません。賜物は異なれど天賦の才は万人に等しく与えられています。それに気づき、自覚して磨く人生であったか否かが問題なのです。年経ただけで伯楽となることはできません。
若者にとって伯楽の如き老人は至宝と言って過言ではありません。私共は伯楽の如き老人にならねばなりません。私の経験では、伯楽は信仰者の中に多く見いだされます。信仰に貫かれた老人は無欲で寡黙ですが、決まって情熱的で若々しく、柔和謙遜の美徳が自然な姿で身についており、肌の内側から輝きが透かし見えているので、私共は一見してその美質に捕らえられてしまいます。
しかし、信仰なき老人に美しい印象を受けたという記憶が私にはほとんどありません。信仰なき老人は老醜ばかりが目立ちます。年をとれば醜い欲望から解放される、と思うのは早計です。人は晩年に至ると、若い頃のように張りつめてばかりはいられず、息抜きがしたくなるのでしょう。さらには長い労苦の実りとして、それにふさわしい老人の贅沢というものがあっても良いのではないか、という思いも湧くようです。美食を求め、地位や権力、名誉や栄華の勲章を貪欲に求めるのは、若者よりむしろ老人の方です。功なり名遂げた老人が自分の銅像を故郷に建てんと願うのは、自分の人生が如何に意義深いものであったか、人生の総決算としての証を残そうとして、でしょう。
若者の純粋な心には欲望むき出しの老人の生きざまが醜く映ります。それが人間の本性だ、人間の本当の姿なのだ、といくら説明されても、そうした老人を若者は尊敬する気になれません。若者は美しく年老いた人々の輝ける姿に魅了され、老醜を漂わす人々から目をそむけるのです。若者にとって邂逅となり得ない老人にはなりたくありません。
信仰者が魅力的老人になり得るのは、その人の人間的魅力が完成の域に達しているから、と言うよりかえって逆に、その人自身がすっかり剥げ落ちて、内にいますキリストが透かし見られるようになるからなのです。美しく年老いる、というのは、つまり、いよいよ無私無力になることによって自己の全存在を残りなく惜しみなく主に献げ尽くし、キリスト御自身に立ち上がっていただくことなのです。そうしてこそ、透明な無私の音色が響き渡り、天賦の才はその本来のあるべき姿を完成させるのです。そのとき、年老いた私共は老醜に代えてうるわしいキリストの香りを漂わせることでしょう。
ああ、その日の到来が何と待ち遠しいことでしょう。
【編注】伯楽は中国古代の良馬の鑑定家。転じて人物を見抜く眼力のある人のこと。

(『恩寵と真理』833号「美しく年老いるために」水谷惠信1986年8月1日発行 同信社)