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4月 「わたしの夢」~ 惠泉塾を始めた頃の手紙(1996.3.20 東海大四高 水谷幹夫)~

小学校6年生の卒業文集に、わたしは医者になりたい、と書きました。小学校3年生の5月に交通事故で右腕を47針も縫うけがをして、九死に一生を得た体験をしたところから、自分も人の命を助ける尊い仕事がしたい、と一途に思い続けていたのです。
高校に入って、シュヴァイツアー博士のアフリカ・ランバレネでの医療奉仕の活動を知り、わたしの夢は無医村の医療奉仕へと膨らみました。
大学入試に失敗して、自分の夢を再確認した浪人時代、要するにわたしは、悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ人生を送りたいのだ、ということを知りました。それであれば何も医者になるだけが道ではあるまい。もっと幅を広げて人生を考え直してみよう。わたしは読書に耽り、教会に通い、お寺を経巡り、著名人の講演会に足を運びました。
結局、「好きこそ物の上手」の諺どおり、自分の生来の気質に一番合った道で目的を果たすことこそ無理のない自然な人生と思い定めて、文学の道を選びました。が、親の説得に失敗しました。
親子の縁切りをし、家出同然の格好で北海道に渡り、大学の入学金と半期納入金以外にポケットには一銭もないところから自分の人生を始めました。当時の札幌は人情の厚い町でした。多くの見ず知らずの人々が貧しい孤独な学生のわたしを助けてくれました。
大学では国文学と社会学を主に学びました。大学の図書室で書物に囲まれて調べ物をし、問題を追究するのは実に楽しい仕事でした。わたしは今もあの時代に戻りたいと思います。
高校に勤めた動機は、大学院の資金稼ぎでした。教育に全く無関心のわたしに東海四高の現実は強烈な一撃を食らわせました。非行の続発と体罰の横行。提案して、非行の原因と対策についての学習会をテキストに基づいて毎週1回放課後延々と1年半続け、学校の流れを大きく変え得た“変革のドラマ”は生涯忘れ得ぬ思い出です。
以後、性教育、作文教育、札幌市学校教護協会の仕事、国語教育研究、ボランティア活動、と仕事の輪が広がり、大学院に戻るどころか文学研究さえ棚上げされ、すっかり教師稼業の泥沼に足を取られてしまいました。
大切な同志を失い、葬儀を司りつつ、初志に帰るべきときが来ていることを自覚しました。わたしは悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ人生を送りたい。利潤を求める大企業の一歯車の身の上では、それも充分為し難いということがしみじみ分かって来ましたから、独立自営農民の身分をいただいたときは、晴れ晴れと解放された爽快の気に満たされました。
歴史は今わたしの足元にあります。余市の農村を舞台に、果樹と野菜栽培、パン工場とレストラン、家具工房と鉄工場との生産部門と惠泉塾での教育部門、それに宿泊施設を加えて、全体として一つの愛に基づく生活共同体を創り上げ、昼は働き夜は語り合う学びによって確かな人生観を持つ若者を育て、過疎と老齢化に悩む余市農民にその若い活力を提供し、その上、ここが老人や障害を持つ人にも心和む「終の棲家」になれば、と夢見ています。今まで培った総力を結集して、この“理想の村”づくりにわたしは残りの生涯を捧げます。これが最後のわたしの仕事、わたしの夢、星に繋ぐわたしの大志です。