ニュース&トピックス

2月 死の意味を見つめる ~「終活」はお済みですか?~

余市惠泉塾では昨年、癌で亡くなられた召団員の方の葬儀が2回執り行われた。 1月に召された仲吉紀朝さ

ん。奇跡を見せられて神の力を知り、悔い改めて信仰に入ったものの、彼はいつも「古き我」を温存する心弱い信徒だった。神様よりも好きなお酒に依存し、自分の楽しみを第一とする生き方をやめられなかった。神様に対して不誠実だった彼は、しかし、癌と診断され、死の宣告を受けて初めて、眠りから覚めた人のように真顔になった。自分から願い出て、水谷先生に癒しを祈っていただいた。 そのとき、彼の魂に神ご自身が臨んだ。「今までの自分勝手な生き方を悔い改めますか?」「はい。」そう答えたとき、魂の内にまことの回心が起こった。死に臨んで生ける神を知った彼は、目が開かれて希望を見いだし、毎日聖書を読み耽る人に変わった。それから召されるまでの2ヵ月半は、御言葉に服して神様のなさりようを全面的に受け入れ、その人生が神様のものとなった。自分ではもう何もできず、介護されるしかなく、投げ出されて「無」になった彼を通して神は雄弁に語りかけられた。「私は生きている、今もここにいる!」と。そして、紀朝さん自らが選んだ場所、余市惠泉塾での最期の2週間は、その後何十年生きたよりも強烈に神を透かし見せた。その葬儀は、涙と笑いと感動に包まれたのだ。 一方、12月に召された長谷川ヨシミさん。癌との闘病生活は実に17年に及んだという。私たちは痛みや苦しみの多い人生を送りたくはない。できれば避けて通りたい崖っぷち、人生における「死の陰の谷」、それを17年歩き通したヨシミさんは、その過酷な闘病生活を通して忍耐強い神の愛を表わすために生きたと言えるのではないだろうか。死の陰の谷を17年も歩いたからこそ、燦然と輝いたヨシミさんの人生における神の力…、それを私たちは目の当たりにした。地上での長い試練を通して練りきよめられ、天国人に相応しくされるプロセスを見た。崖っぷちで自力にあきらめ、幼子のようになって娘さんに負ぶわれ、背負われて神の愛にすがったヨシミさんは、そのとき、投げ出されて「無」になり、主の御ふところに抱かれたことだろう。 死を通してなし遂げられる人生最後の仕事こそ神にとって最も価値のある大切な仕事だという。紀朝さんの葬儀を通して、神を知らない250人の沖縄人が福音を聞いた。ヨシミさんの葬儀を通して親族が一つとなり、わだかまりが解けて愛し合う空気が火葬場に満ちた。死はもはや自分のためではなく残された者のためにあり、神の愛の素晴らしさを後輩に見せるためにある、と教えられる。 紀朝さんもヨシミさんも弱さや苦しみの多い人生だったかもしれない。しかし、その死を通して沖縄に、全国に、全世界に、神は生きておられることを示し、今日も誰かの救いのために用いられている。小さな私個人の人生が偉大なる神のものとされたのだ。 作為的にではなく、自然体で神を生きるようにと私たちは招かれている。「無」になって「神の愛」で隣人に向き合うことが求められている。淡々と暮らしているが、この「惠泉塾」を通して、無意識の内に世界に表わしているものがある。クリスチャンの人生は、何と感動的な神のドラマに用いていただけることだろう。栄光在主。