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11月 死を見つめて今を生きる ~「沖縄 終活セミナー」での水谷先生のメッセージより~

神にとって死はすでに始まっている。神の言葉を聞いても反応しなくなった人は神の前に「死んでいる」。そんな人間に満ち満ちている世界は死がそのほとんどを覆いつくしていると言える。そのような中、一握りだけの「生きている」人間がいる。神の言葉に反応するクリスチャンだ。
神の前に「生きている」人間、パウロは示された。異なるものが互いに愛し合って一つとなる世界づくり ―― これが天地創造の目的だ、と。神はなぜこの天地を創造されたのか、それで私たちもよく分かった。神抜きには決してできないことである。唯一神を信じるヘブル人と異なる神を信じるギリシャ人とが、心の壁を外して互いに理解し合い、愛し合って一つとなるなんて、当時、そんなことは考えられもしなかった。
ところで、一番大きく異なるものは創造主なる神と被造物たる人間である。問題中の問題はこの神と人とが互いに愛し合って一つとなることであり、この「実験」に成功したのがクリスチャンである。神はイエス・キリストを派遣し、キリストに繋がる(信じる)ことによって神と人が一つになるという奇跡の道を開いてくださった。敵対していた神と人とが和解して関係が良くなり、一緒に働けるようにしてくださった。これが神のご計画である。
和解すると神の命が流れ込んでくる。私は20歳で神と和解してから50年、神の前に「生きている」者として、多くの人を神と和解させるために用いられてきた。死人をよみがえらせてきた。その50年間は病気知らず、使命のために妨げになることは皆取り除かれた。
今、ラザロが病気だと聞いて、「おかしいな、ラザロは私を信じて神と和解しているはずだが…」と思ったイエスはハッと気づいた。そして言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」ラザロには今病気で死ぬという任務があったのだ。
神の目に、イエスを信じて死んだ人は「眠っている」のであり、神の目に、イエスを信じないで生きている人は「死んでいる」のである。だから「ラザロは眠っている」とイエスは言われた。だが、この世の立場から言えばラザロは死んだのであり、「わざと完全に死んでから私は来た」と言われた。死人をよみがえらせることがイエスにはできるということを、皆に信じさせるためであった。でも、まさかイエスが神であり、終わりの日でなくとも今ここで死人を復活させることができるなどと弟子たちは信じなかった。マルタにもマリアにも信じられなかった。実は私たちも同じではないか。死は最悪であり、今、生物として生きていることだけが最大の関心事 ―― という発想から抜け出せないのではないだろうか?
「私は復活である」というイエスは、命そのものだ。死を知らない。このイエスに信頼すれば、たとえ肉体は死んでも魂は生きる。肉体が生きているときイエスに信頼して生きればその魂は不滅、神の前にいつまでも生きる。肉体の生死に関わらずその人は永遠の命で生き続けるのである。肉体はいつか滅びるが、魂はよみがえるのでその人に第二の死は来ない。
つまり、二種類の死があるのだ。肉体の死は「第一の死」であり、魂の死は「第二の死」である。肉体の死は誰にでも訪れる。が、本当に恐るべきは肉体の死ではない。第二の死、魂の死である。永遠の命をもって肉体を離れていくならば、その人に第二の死はない。
キリスト教の葬儀は、第二の死に陥らないようにするための生き方の提案である。神の前に「死んでいる」者ではなく、「生きている」者となって人生の幕を閉じてほしい、というこの神の言葉に耳を傾けよう。そして信頼しよう。神は今も生きて働いておられる。