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10月 信仰は恋心のようでなければならない(2004年のメッセージ/詩編105篇より)

 主に感謝をささげて御名を呼べ。/諸国の民に御業を示せ。/主に向かって歌い、ほめ歌をうたい/驚くべき

御業をことごとく歌え。/聖なる御名を誇りとせよ。/主を求める人々よ、心に喜びを抱き/主を、主の御力を尋ね求め/常に御顔を求めよ。/主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を/主の口から出る裁きを心に留めよ。/主の僕アブラハムの子孫よ/ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。(詩篇105:1~6)    「御名を呼べ」とは「愛なる神を求めよ」ということである。私たちが「神は私の人生をこのようにお取り扱い下さり、あるとき私にこうなさいました!」という証しを携えて喜びに溢れて帰ってくることを神は求めておられる。もっと私を知ってほしい、求めてほしい、と。奇跡的な神のできごとを賛美し、「主よ、もっとあなたを知りたいです。あなたとお出会いしたいです」と熱烈に求めてほしい、と。誰でも恋をすると芸術家になると言われるが、全く同じ理由で信仰生活に入るとみんな芸術家になる。神に出会って信仰に入った頃の喜びは心がとろけるよう…、当時溜まり場になっていた奥田昌道先生の家で京大生と一緒になって歌って、歌って、語って、絵を描いて、友が出来て、慕わしいグループが育ったものだ。神が私と共におられる!という告白には、語らずにいられない、已むに已まれぬ熱い思いが命となって溢れ出るから、友と語れば力が来、笑顔に接して命が来た。 「主を求める人よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ」。自分がイエス様大好き人間であることを隠さず、「主よ、もっとあなたを知りたいです、出会いたいです!」と叫んで熱烈な求愛行動に出る人は「求道者」であり、また「巡礼者」である。どこまで行っても私たちは天国への巡礼者なのだ。もっと深く、もっと鮮やかに主を知りまつりたい。だから求める。それが「御力を求める」「御顔を求める」ことであり、これはもう、恋する者の歌である。神は決していかめしい恐ろしい神ではない。信仰とは愛する方との愛の交わりであり、信仰は恋心のようでなければならない。慕わしいあの人に会えば力が来る、命づいてまた頑張れる、というふうな…。 しかし、「主の口から出る裁き」すなわち「主の御声」を聴いて私たちは真実、ハッとさせられる。光が当てられ、自分の本当の姿が露見する。主によって決定的に否定されるべき自分がいる! 決して快いことではないが、ふと足元を見るとザワッとする。間違いなく亡びの道を辿っていた自分がいるのだ。愛の神は人の計画をストップさせることもあれば、人の口を通して「いい加減にせよ」と厳しく諌めることもある。神が私の邪魔をするように、苦しみに遭わせて妨げの枷を置かれるとき、私たちを悩ませる相手のその奥におられる神ご自身の意図を知らなければならない。その導きを信じなければならない。「主の僕よ、仕えるために選ばれた者よ、自分を無力だと思ってはいけない。主が共にいるなら、その方のなさることは途方もなく大きいのだから」と、神は小さな私たちを励ましてくださる。「神の奴隷」であるとは、何と素晴らしい神からの賛辞であり、褒め言葉であろうか。