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惠泉塾前史~救いの神、避け所なる岩

(イザヤ書17章)

 

我々のなすべきは、「しもべがその主人の手に目を注ぎ、はしためがその主婦の手に目を注いで、我らを憐れまれるのを待つ」(詩123:2)ことではないか?!自分の救いの神を忘れ、自分の避け所なる岩山に心をとめないで、自分で作った文明や迷信に頼るのは、愚かである。人の手の業は時代によって姿を変える。昔、アシェラ像であり、祭壇であったものが、今は農薬であり農耕具、工場であり、生活を守り、社会を繁栄に導く全ての物質文明である。人々は産業の発達に自分の命の守りがある、と考える。しかし、戦争によって産業が破綻し、家屋が焼失し、都市が人住まぬ荒塚と化した時、人々は、人の手の業が自分の命を守り得ない、はかないものであることを知っただろう。「神こそわれらの救いである。死から逃れ得るのは主なる神による。」(詩68:20)現代都市の繁栄は虚像である。ヤコブの肥えたる肉は毒麦繁茂の故である。その栄えは神によらず、人によるものであった。その日、たわわに実をつけた盛んな果樹は歯のぬけおちた後のようにうつろになる。風に穂なびく豊かな麦畑も、土肌あらわな荒漠たる姿に変わる。それが実像なのである。